“反省だけならサルでも出来る”
っていう25年のCM
Youtube 1993年頃のCM 反省だけなら、サルでもできる。
…そのCM内で実際にしているのは
反省ではなく
謝罪…しかも表面的な
このCM面白いは面白かったのですが
個人的にはある違和感があって…それが、
あのCMの“人間”とされている登場者は
「“すみません”と頭を下げている」
のであって、“反省”にさえ至ってないという
ところだったんだぁのが、その後気づいた
その“違和感”の正体。
まぁ、あの頃はやってた
“反省ザルの次郎くん”
との対比としてユーモアになったんだよなぁ
Youtube 反省猿
などと、違和感の分析(苦笑)
とかく“反省”の語感には、
「“謝罪”や“自己の誤り”を正す」の香りが…
反と、省という文字にはどこにも、
「“罪”や“誤り”を正す」
なんて意味はないのにです。
英語だと「reflection」があてられていて
“罪”や“誤り”の色合いは淡いんですよね。
とすると、
“反省”に「“罪”、“誤り”を正す」という
味付けをしているのは
自分…というか
日本文化というか、
親や学校からの躾というか
日本人の気質?の土台は
「和」…争わないし、逆らわない
(現代の価値観にあうかどうかは別ですが…)
江戸時代も、お上に従っておけば
庶民にとっては、大きな障りはない
一部の権力階級での戦いはあっても
そして、その戦いに乗じて
庶民から権力階級に移行する人はいても
争わないし、戦わない
それが起こるときは、
「マジでヤバイほど切羽詰まったとき」
でも、国全体を滅ぼすほどまえに
ある意味整ってしまうわけで。
すると、少なくとも昔は
多少理不尽なことがあったとしても
「お上に従う」
方が、障りが小さい、比較して幸福
だったのかもしれない。
すると、トラブルに遭って
「今までしてきたことを考えてみよ」
と問われると(そもそも上からの命令なので)
「“お上が正しい”VS“自分のしてきたことは?”」
ってことになり、もう質問の時点で
“過去を振り返る(らされる)”ことは、
ほぼほぼ、“謝罪”と“誤りの改善”に
なっていったのではないだろうか…
その名残を、
社会が、大人から子供へ、
家庭は、親から子へ
学校が、先生から生徒へ
気づかぬうちに、コピーをして
「“反省”…自分をかえり見る」とは
自分の過ちと、至らないことに気づくこと
そして、その改善を誓うこと
にしちゃったのかもしれない。
でもさ、かえり見るだから、
“反省”のなかでは、
良いことも自分の出来ること、資源(リソース)として
棚卸ししても良いと思うんだよね。
反省といえば、
単純にこれまでの“自分”について振り返ること。
だから、
今の自分に役立つモノと
今の自分には役立たないので
改善したいモノ
さらには、これから成長したいこと
を知ること
にしていけたらいいかな。
自分の価値について
ふっかけることなく
割引きすることなく
今の自分をありのまま捉える。
お猿さんに、“時間感覚”…
過去の経験を活用し
未来の展望を描く
事ができるとしたら
本当の意味で
“サルは反省が出来る”
ってことになりますが、
本当のところは、どうなんでしょ?
純粋な意味でに“反省”するって
かなり高度なんじゃないかな
そう思います。
では。
(初出 アメブロ“ひじま・まさき”のブログ 2017.2.10 一部改編)
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