その昔、友人達と、
自転車や、自動車で“県外”に
出かけると、
いわゆる“県境”を超えるとき
なぜか、拍手をして「おめでと~」などと、
無邪気にお祝いをした記憶があります。
県境といっても、線というよりは、
[(ここから)○○県]という看板が
道路の別斜線に、背中合わせに設置されている
だけなのですが…
県境ですから、その境の両側で
特に何が違うのかというと
よく分からない
その県境も、150年程前までは、
さらに細分化された“○○藩”の国境でした。
“国”境でしたから、場合によっては
法律が違ったり、お金(藩札)が違ったりします。
それらの境も、だれかが
「これ、俺んちの」とか
いいださなければ、
ただそこに場所があるだけで、
線もなければ、境を示す特徴なんかない。
“境”を決めているのは、
その“境”によって利害を受ける“関係者”。
“人”であって、人の“考え”の中にしかないのです。
利害の関係ない人に取っては、
その“境”は、それ程の意味を持ちません。
仮に、その“境”を超えるとき
「通行税」何かを請求されたとき
初めて“境”の無いところを探そう
なんて思うわけです。
すると、“意味”というのは、
“自分自身”にとって、影響があるかどうか
…下世話な言い方をすれば、損か得か
を知るためのものでしかない
つまり、自分に関わる“関係性”について
受け容れるか、排除するかを
判断するための基準が、“意味”ということ。
ですから、
“自分”の範囲が変わると…自分がなにものかが変わると
その意味の付け方も変わります。
たとえば、
待機児童の問題などで
日本人としては、将来を支える子供が
育つ環境は大事だ
という人も、
「静かに暮らしたい」という一個人になったとき
保育所は近くに創って欲しくない
なんてことになる。
一見矛盾しているようにも思えるが、
“自分”の範囲が変われば、
意味の付け方、状況の受け容れ方が
変わってしまうのだ。
生き物の命を奪いたくないから
お肉やお魚を食べないという方も
植物の種(穀物)、葉や根(野菜)を
食べるとしたら、その命はどう考えるか
なんてことになる。
意味は、どうしたって、世界ではなく
人の“考え”の中にあるってことになるわけです。
すると、価値観の対立や、
意味についての議論は、
本質的にはやりようがあるとおもうんですよね。
ただ、“あなたの言うことは理解できない”
というフレーズに、支配さえされなければ。
言葉の特徴として、いつもお伝えしていることですが
この“できない”というフレーズは、
一見可能性が見当たらないということを
伝えているようですが、
多くの場合、“しない”という意志決定を
既にしていて、その言い訳を自分の外部に見つけて
表現として〔外部の理由〕だから出来ない
と伝えているのですよ。
ですから、“できない”というフレーズが
浮かんだときには、〔できたとしたら?〕
と自分にツッコミを入れてみてください。
さて、価値観の合わない、意味の分からない
議論と遭遇したときには、
まずは、相手の話も
「仮に相手の意見に“理”があるとしたら」
という点で情報を集めてみてください。
最初から、相手は“正しくない”という思い込み
で始めれば、あなたが相手に見る世界は
“相手が正しくない”ですから。
なぜって、
世界そのものにはもともと“意味”はなくって
“人の考え”の中にだけあるのですから
(初出 アメブロ“ひじま・まさき”のブログ 2017.1.10 一部改編)
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