お化け屋敷…もう何年も行ってませんが
このアトラクション、言ってみれば
わざわざ「身の危険の“感覚”」を
味わいに行くところ…といったら言い過ぎでしょうか?
フィクションの世界だと分かっていても、
自分の想定しないタイミングで…出てくる
自分の想像以上のインパクトで…現れ、音がする
そのフィクションに脳が対応策を持てないとき
「身の危険の“感覚”」がやってくる
とりあえず、「叫べ〜、ぎゃぁああああ」と。
脳から声帯と肺に命令が下るわけで・・・。
自分たちにとって、自分の知り得ないことは
少なからず、“恐ろしい”のです。
江戸の俳人横井也有の作と言われる
「化け物の正体見たり枯れ尾花」
で詠まれるように、正体が分からなければ
月見で愛でられるすすき(≒枯れ尾花)さえも
恐怖の対象になるわけで・・・。
上で書いたように“恐怖”というのは、身の危険の“感覚”のこと。
生き抜くためには、命を左右する情報なので
自分たちも、最優先に処理することになるのは道理。
それだと「心配性」は、どうしようもないことになって
しまうのだけれども、実際は、適切に「心配」出来る人もいる。
さぁ、そこの違いは何だろうか…と考えてみると
「正体」を見極めているかどうか。
正体が分かると何が良いかというと、
「対応のしようが見つけられる」
ということ。
化け物は、それに遭遇したときにどう対応すれば良いから
心配なのであって、
ススキであれば、特別害がないし、あったとしても、
手で折って、どこかに捨てることもできる(勝てる)から
もう心配する対象ではなくなる。
つまり「心配性」は、心配の対象に対する
情報収集が不足(あるいは、あいまいなまま)している
と考えてみてはどうだろう。
情報が不足すると、
「心配」は、その心配の“感覚”が
それを増幅する。
言ってみれば「心配」に心配のラッピングを
するようなもの。
そもそも「心配」は、そのラッピング、包装紙
なのであって、実体はないのかもしれない。
実体がないものであるがゆえに、
妄想は膨らむ…結局「心配」で心配を包んでいると
最終的に、何が心配だったかあいまいなまま
「何だか心配」という、傍から見ると
変な感じになる…これが「心配性」の正体だとしたら
心配性の人をその時に悩ませている
「心配性」の正体は、具体的に“何”なんでしょうね?
ここを丁寧に見つける(聞いてあげる)と
きっとこんなことに気づくはずです。
「あの心配は今どこに行ってしまったのだろうか」
と。
想像してみてください。
夏の昼間、スケルトンの建物に作られた
お化け屋敷を…スタンバイしているキャストも
脅かそうと準備された仕掛けも
全部種明かしされてから、入るのに
どこにどきどきの種を見つけます?
…秋の学園祭でお化け屋敷を企画している人には
ちょっとした勉強にはなるでしょうけれど…
(初出 アメブロ“ひじま・まさき”のブログ 2016.8.12一部改編)
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