先日、ふとつぶやきたくなったので
Twitterに
多様な価値観を認める」事を肯定するとき、
「“多様な価値観を認めない”という価値観を認めること」も内包してしまう。
なんてことを書いた。
実際の所、人が言う“多様性”は、
いわゆる「良い加減」(いいかげんではなく)な
ところでバランスが取れているはずなのだ
そうでなければ、
“画一性を良しとする”事を認めない
“多様性”で価値観を画一化することになる。
すると、もはや“多様”ではなくなる。
どんな価値観も、言葉で表すと
単一の色のようにはっきりした物に
思えてしまうが、
その実は、中間色、グラデーションで
おなじ「表現の価値観」でも
同じとは限らないのだ。
相手に聞いてみること、
理解し合おうとすることが
役に立ちそうだ。
場合によっては不可欠だ。
私たちは、物事を判断するとき
単純化する。その方が決めやすいからだ。
しかし、
単純化は思わぬ弊害を生む。
対立、敵対だ。
一見すると寛容そうな
“多様性を認める”というフレーズに
「べき」という助動詞をつけた瞬間
言葉は単純化され“寛容さは”失われる
互いの主張が成される前には、
ぜひ、“多様性を認める”ことと“画一性を求める”との間に
その“場”、“メンバー”の真実がある
と心しておくべきだろう。
そうでなければ
どちらに転んでも、互いの主張を認めない
「“多様な価値観を認めない”という価値観を
認めることのできない奇妙な“多様性”か
“多様な価値観を認めない”という単なる“画一性”の
主張で終わる」・・・対立を遺して。
互いに言いたいことは、言い合う。
言い合うだけではなく、相手の主張は聞く。
・・・受け入れるかどうかではなく、
主張の存在を認める。
こういう積み上げられた議論を
上手く支える“コミュニケーション”の
技術をさらに探求していきたいものです。
(初出 アメブロ“ひじま・まさき”のブログ 2016.8.5一部改編)
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