自分が“主体”になる。
起こる出来事を、状況、環境、他の誰かの所為に
すると、ひとつ困り事が起こります。
それは、この世界が
「自分には、手出しができない」ものになったり、
「自分の思い通りにできない」ものになる
ということ。
自分の時間は、誰かのもので
自分の“人”生も、、誰かのもの
てなことになりかねない。
・・・もちろん、心情のレベルかもしれませんが、
ときに、無意識的な判断、
「進むのか」「戻るのか」「諦めるのか」
というときに、影響が出ます。
そうすると、今度は、
「全部、自分が悪いんです」と
責任を全て取ろうとする人も登場します。
そうはいっても、
“天候”なんかは、予報は出来ても、
変えることは出来ませんし、
“不慮”のことは、起こるもの。
この世界の人間だけでも70億もの意図や想いが
この世界中でちょっとずつ影響を与え合えば、
誰か一人の“想い”では、如何ともしがたいことも
あるでしょう。
それに加えて、この世界には、何兆もの生き物の“意図”が
有るのだとしたら、
・・・「碁盤の上のAlphaGO」
が予測するできごとの何億倍、何兆倍の
“手”の予測が必要になります。
そんな世界で起こること“全て”にたいして
“責任”を取る事なんてできないのかもしれません。
・・・少なくとも僕には。
それでも、ひとつ全てに責任を取ることが
できることがあります。
それは、起こった出来事の結果の後
“自分が主体的に何をするか”。
ここから先の一歩には、“主体的”
ある意味、責任を持って、恨みっこなしに
自分の行動を選ぶことが出来ます。
仮に、今、自分の前の選択で
“望んでいない状況”にいたとしても、
そこで、「責任」ということばで、
自分を責めてもしょうがない。
責めている時間があったら、
あなたが居続けたくはない“その状況”から
抜け出すという方がいいんじゃないかなと
思うんです。
そのとき
「“自分を責めてる”場合じゃない」んです。
“自分”がつかえる“自分”の資源
そして、
“自分”をフォローしてくれる仲間が
信用してそうできるように
“自分”を自分自身から信用する。
・・・“自分”を諦めないってとこでしょうか。
そんな“自分”を信じる力を、自分が“未来を創る”ことを信じることが
“自信”をもつ、あるいは、“自信”があるということ
なんじゃないですか?
・・・そう、責めてる場合じゃない
自分を含めた、誰かを責めてるとき
人生のそのシーンでの
「プレイヤー」をやめちゃってますよ。
(初出 アメブロ“ひじま・まさき”のブログ 2016.4.5一部改編)
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