「私は嘘つきだ」という告白・・・
「私は嘘つきだ」という告白をされたとき、
嘘つきが“嘘つきだ”と言っているとすると、
その“嘘つきだ”は“嘘”になる。
すると“嘘つきではない”ことになる・・・
もう良いですよね。
いわゆる「嘘つきのパラドックス」と
哲学や論理学で呼ばれる文です。
しかし、日常
「どうせ、俺は嘘つきだからさ」とか
使いますよね。そしてそこでは、
”嘘つきのパラドックスがどうのこうの”
という話しではなく、
相手に同意したり、相手に「そんなことないよ」と
フォローしたりするはずです。
考えてみれば、嘘つきが“私は嘘つきだ”という
ことを素直に捉えれば捉えるほど
混乱するはず。
ですが、日常の会話では、
混乱せずに済んでいる…なぜでしょう?
自分を評価する“自分”
成長するに従って
自分を「客観視」しろ、って言われることが
増えます。
・・・まぁ、自分を自分の目で見た時点で
少なからず主観なのですが
というのはここではさておき…
社会の中で、他の人々とバランスを取って
生きていくために、この「客観」する視点を
持つようになっていきます。
すると、先程の“私は嘘つきだ”の告白も
「私は自分のことを“客観的に見て”嘘つきだと
評価している。」というように
“客観的に見て”と言う言葉を加えるだけで
あたかも
“嘘つきの私”と“評価する私”を
別人であるかのように扱うコトが
できているのです。
私たちは、常に、“自分”について、
「ふと考える事」が出来ます。
そしてひとしきり物思いにふけった後、
その「ふと考えたこと」について
「またムダな時間を…」とか言うように
さらに評価することも出来ます。
私たちが考えたり、感じたりすることの多くは、
自分自身が評価していて、
その評価に対して、自分にとって
「納得感があるか否か」
で、その評価を受け入れているようなのです。
では、やっと本題。
自分の(行動や意見に)自信(確信)が
持てないことがあります。
言い換えれば
自分の(行動や意見に)疑念を持つ
ことがあるのですが、
では、この持てない自信(確信)や
持ってしまう疑念というのは
どこにあるのでしょうか?
疑念は情報不足の賜物。
自分の(行動や意見への)評価に過ぎない
特に若いとき、新しい仕事や挑戦に
不安を抱いていると、
先輩や上司から、
「お前なら大丈夫」なんて励ましを
もらったことがあります。
ただ、そうは言っても、
「自分に自信(確信)がないのに
大丈夫もなにもあったもんじゃねぇ」
と自分の自分への評価が最低だったので
なかなか受け入れられなかったのですが。
結果、先輩や上司の見立て通り
「大丈夫」だった経験の積み重ねの結果
新しかった仕事や挑戦への
自信(確信)が定着しました。
特に仕事においては、先輩や上司は
既に経験をしていて、その見立ては
ほぼ外れなかったりします。
すると、先輩や上司の
「お前なら大丈夫」
への疑念の根拠は
自分の中にしかないものだった
・・・ってことになります。
もちろん、経験不足で、なかなか
自分の判断に自信(確信)が持てないこと
もあるでしょうが、
もし、自分の見立て、行動が
「合っている」としたら、
「大丈夫」だとしたら
そのパフォーマンスそして、その結果は
確信を持てずに行動するときと比べて
どのくらい、クオリティが上がるでしょうか?
どのくらい楽しく、クリエイティブに
できるでしょうか?
自分への自信(確信)が持てないということは
確信を持つだけの情報が不足していると言うこと
それを積み重ねることと同時に、
具体的に、自分の“何”に対する信頼が
あれば良いのかを探求すれば
自ずと疑念を抱くべき部分は、
なくなっていくはずです。
自信が持てないことを不安に思う必要はありませんよ
ただ、確信を持つだけの情報が不足していたということを
「根拠見つけろよ!」とたきつけられているだけなのですから。
(初出 メルマガ “心がイキイキする言葉のフレッシュサラダ”2016.9.2 一部改編)
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