最近こう思うんですよね。
せっかくなので、“未来の自分”に期待すればいいって。
つまり、自分の未来を“楽観”することです。
すると、そこには、
少なからずギャップができます。
それは…今のまま、成長も変化もなく
進んだときに、行き着く先が“期待”しがたいかもしれない
という直感。
でも、こういうギャップに気づいたからと言って
未来を悲観することも、未来の自分に失望することも
ないですよね。
ところが、ついそれらをごちゃ混ぜにしてしまう。
“楽観”イコール“慢心”でもあるかのように。
未来への過剰な自信や、希望的観測に基づく“楽観”だと
たしかに恐い。
その恐いっていう“感覚”に反応して、つい“悲観”してしまうのは
とてももったいないことだと思うんです。
そこで、“楽観”を丁寧にしてみたらどうだろう?
自分の“可能性”について楽観する。
「何か、やれることがある。…何をやれるだろうか?」
「何か、見つけることが出来る。…何を見つけられるだろうか?」
「何か、生み出すことが出来る。…何を生み出すことが出来るだろうか?」
「やり遂げることが出来る。…どのようにやり遂げられるだろうか?」
自分に対する“楽観”を、
一歩踏み出す具体的な問いに変える
…言わば、“楽観”から“楽観的挑戦”に変えるステップを
創るわけです。
言い換えれば、
“楽観”を都合良くただふくらませて、“慢心”や“希望的観測”に
してしまう代わりに、
・現実的に、行動的に、“可能性”として拡げていく。
・行動をした結果を、可能性を確実にする材料とする。
・すべてが“自分の糧となる”…起こる出来事をも“楽観”する。
という、多角的に世界を“楽観”するのはどうだろう?
現実世界は、モノの見方だけでは、変わりません。
その見方に基づいてした、行動が変えていくのです。
…具体的な行動に翻訳する方向に、段取りが進まなければ、
いかなる“楽観”も“悲観”も有用ではないのかもしれませんね。
如何思われますか?
(初出 アメブロ“ひじま・まさき”のブログ 2015.2.13 一部改変)
http://ameblo.jp/awakeners/
Team-Awakeners ひじままさきのNLP/コミュニケーションワークショップ
こちらのHPで紹介しています。→ http://liveasmyself.com/
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